森脇健児のスタートライン – 走りと笑いの始まり
現在57歳で芸歴40年のタレント森脇健児さんは毎日10kmのランニングを欠かさないそうですね。オールスター感謝祭で走れる身体を保つためにトレーニングしているそうです。
赤坂5丁目マラソンの賞レースを常に意識しているんですね。2003年10月に初出場で優勝してから20年以上出場し続けているのが凄いですよね。
しかも初出場の時よりも今の方がタイムは早いそうです。50代で進化し続けているということですよね。40年間副業もせずに芸能界の収入だけで生活しているそうです。
森脇健児/20代レギュラー10本/SMAP従えMCも30歳で無職/再起かけ島田紳助の前で…
大阪府の平方市出身の森脇健児さんは、普通のサラリーマンの家で3兄弟の真ん中として育ったそうです。
2つ年上の兄は足が速かったそうで、兄に影響されて陸上部に入部したものの、中学1年生の時は枚方市の100m大会でも予選落ちするくらい足は遅かったそうです。
しかし、努力して練習を続けたことで中学3年生の時には大阪で100m走ベストテンには入るくらい早くなったそうですね。
インターハイに出場するために高校は兄が通っていた陸上の強豪洛南高校に進学したそうです。文武両道の関西では名門高校ですよね。
実は森脇健児さんは、小学校3年生の時からお笑い芸人になることが夢だったそうで、笑福亭仁鶴さんが好きだったそうです。
中学になると島田紳助さんのラジオにハマって、自分はラジオを聴く側ではなくて喋る側の人間になると決めて島田紳助さんの話を聞いていたそうです。
芸人になる時にインターハイで有名選手として知名度があった方が有利なんじゃないかという策略も中学3年生の進学の時には考えていたそうですね。頭が良いんでしょうね。
学校でも中学2年生の時には友達と「テクノポリス」というコンビを組んで学園祭で漫談や漫才を披露していたそうで、先生の話とかをネタにするのでウケていたそうですね。
そんな感じで高校は陸上競技で行ったそうですが、高校2年生の時に学校で開催された弁論大会に出場して漫談で優勝したそうです。名門洛南高校の理論派を撃破したんですね。
さらに高校3年生の時には短距離走でインターハイも出場して、全国大会に陸上で出場したという実績も獲得できたそうですね。
森脇健児さんは高校3年生の在学中に『第一回松竹芸能タレントオーディション』が開催されるのを知ってオーディションに参加したそうです。
その結果、1984年に17歳で松竹芸能入りを果たしたそうです。学生の時から松竹芸能に所属していたんですね。
森脇健児の挑戦 – ラジオから全国区への飛躍
高校を卒業して陸上推薦で桃山学院大学に進学した森脇健児さんは、大学1年生の時に笑福亭鶴瓶さんのヤングタウンというラジオ番組のアシスタントに大抜擢されたそうです。
当時の笑福亭鶴瓶さんは松竹芸能の看板芸人でしたから間近で学ぶところがいくらでもあったそうですね。それでも現実は甘くなくて1年でアシスタントを外されたそうです。
しかし、そこから大学2年生の時にはKBS京都『ハイヤングKYOTO』というラジオ番組ので日曜日22時から25時までを1人で担当することになったそうです。
そこでターゲットを京都の女子高生に絞る作戦で学生の話をどんどん繰り広げたそうです。この前まで自分が高校生でしたもんね。
その作戦が命中して公開生放送をしたら女子高生がたくさん見に来たりするので、若者から人気あるラジオパーソナリティーとして知名度が一気に広がったそうです。
スポンサーもそういった動向は見逃さないので森脇健児さんは他にもレギュラー番組が増えたりして色々な人と関りを持てる環境になったそうですね。
そこで森脇健児さんはある発見をしたそうです。面白くても人間性がダメな人間は売れないという法則があって、「酒」「金」「女」「時間」「挨拶」が大切だそうです。
「酒に飲まれる」「遅刻する」「女性を泣かせてる」「女性に食べさせてもらう」「挨拶しない」というような完全な社会不適合者では厳しいという現実があるということですね。
そういった部分を意識しながら大学生活と芸人を両立していた森脇健児さんは、大学4年生の秋に読売テレビの『ざまぁKANKAN!』という番組の帯を担当することになったそうです。
関西ローカルとは言え21歳でMCをやってるのは凄いですよね。そのまま力を付けていった森脇健児さんの勢いは止まらずにいいとも!のレギュラーが決まったので24歳で東京進出を果たしたそうです。
いいとも!に出演するようになってから全国区となり次々と仕事のオファー舞い込んでくるようになったそうですね。
森脇健児の転機 – ボクシングジムで見つけた新たな自我
翌年の25歳には『夢がMORIMORI』でブレイク前のSMAPと共演したそうです。時代はバブルなので仕事もお金もいくらでも入ってきてまさに芸能界というのを味わったそうです。
8000万円のマンションを5年ローンで購入して、ベンツも2台キャッシュで購入して乗っていたそうです。完全に金銭感覚が狂っていたそうですね。
このままでは人としてダメになるような気がした森脇健児さんは、27歳の時から毎日ボクシングジムに通うようになったそうです。
ジムにはまだプロになる夢が叶っていないボクサーや会社でのストレス発散の為だけに来ている人など色々な人がいたそうです。
そういう人たちと話をすることで自分が忘れていた感覚なども蘇ったりして、森脇健児さんにとってとても刺激になり居心地の良い場所だったそうです。
当時はタレントで片岡鶴太郎さんくらいしかボクシングライセンスを持っていなかったので、森脇健児さんもどうせならライセンス取るのを目標にしてジムに通ったそうです。
かなり順調な芸人生活を送っていた森脇健児さんは、30歳頃まではレギュラー番組12本持っていたそうです。売れっ子中の売れっ子ですよね。
しかし、森脇健児バブルは一気に弾けたそうで、31歳でレギュラー番組など全て終了して関西に戻って若井はやとさんの付き人をやっていたそうです。
何か大きなスキャンダルや事件を起こすこともなく、需要がなくなったらここまで一気に仕事がなくなるのは芸能界の怖い所ですね。
日々仕事はなかったのでボクシングジムとランニングだけは毎日欠かさずに続けながら付き人をこなしていたそうです。
森脇健児の再起 – 感謝祭で見せた逆転の走り
逆に暇なので今まで受けれなかった長期ロケの仕事なんかは話が来ると一生懸命にやっていたそうですね。黄金伝説の1ヶ月1万円生活なんかも印象にありますよね。
そんな感じで貯金を切り崩しながら芸人として活動していた森脇健児さんに転機が訪れたのは36歳だそうです。2003年秋のオールスター感謝祭に出演するんですね。
久しぶりの東京での大きな仕事で緊張したそうですが、赤坂5丁目ミニマラソンで優勝したんですね。それによって走れる人として世間的に認知されたんですね。
そこからなんだかんだ今では40回連続で出演して全て10位以内に入賞しているんですよね。毎日トレーニングを欠かさずにやってなかったら年齢的にも無理ですよね。
森脇健児さんは、今までの人生が助走だと思っているそうです。50代がホップ、60代がステップ、70代がジャンプで80代にはウイニングランで終わりたいそうです。
「コツコツが勝つコツ」などの発言をしたりしていますが、暇になってからコツコツと積み重ねてきたことがまた花咲いてきている感じですよね。
森脇健児さんは、40年芸能界にいるので業界自体が変わってきているのを肌で感じているそうです。
酒飲んで、タバコ吸って、夜中までどんちゃん騒ぎしても芸人だから仕方ないよねと言われた時代はとっくに終わったと思うそうです。
森脇健児の現在 – 早寝早起きとタイ語学習
今ではスマホをみんなが持ったことで24時間監視カメラを持たれている感覚だそうです。著名人や有名人は見張られている感覚を持たないといけないと感じているそうですね。
森脇健児さんからすると良い時代が来たと思うそうです。人によってはやりづらいとか生きづらいと思っている人もいるかも知れないですが自分は違うそうですね。
何を撮られても何を言われてもちゃんとやっている人しか残れない時代なので、自分はおかしなことをしている部分はないと自負しているそうですね。
不倫はおろか二股でもバレたら芸能界を消えていくような時代で、若い子たちには不自由かも知れないがもう自分のようなおじさんには関係ないそうですね。
毎日21時30分に寝て3時に起きて活動するそうです。「早寝早起き森脇」を徹底していますが、昔はこんな生活の人生になるとは予想していなかったそうですね。
それでも楽しく生きているのでこれからもコツコツと努力してやっていくそうです。最近ではタイ語を勉強しているそうで少し喋れるくらいにはなったそうですよ。
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