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山本美憂の現在は!?

スポーツ選手

山本美憂さんには現在13歳・中学校1年生の娘さんと、アーセンという名前の長男と次男の合計3人の子供が居ます。山本美憂さんはRIZINに出場するレスリング選手で、主人がグアム人という事で拠点をグアムにしていますが、コロナ禍も相まって永住権の申請をしないとグアムに戻れない状態になっています。旦那さんとは1月に会って以来3ヶ月会えていません。

その前は1年間会えなかったと言います。山本美憂さんは世界選手権で3回優勝しており、1度は準優勝という華々しい成績を収めています。メダルが多すぎて飾りきれずに埋もれています。YAMAMOTO SPORTS ACADEMY というスポーツジムも一家で経営しています。元々は弟のKIDさんが初めたジムです。

山本美憂/レスリング3度の世界一/弟山本KIDの闘病支える為RIZIN挑むも連敗女王と呼ばれ…/弟の死後汚名返上


山本美憂さんの出身は川崎市の宮前平ですが、生まれてすぐにあざみ野という横浜市に引っ越し、高校1年生になるまでそこで暮らします。父親は1972年ミュンヘンオリンピックのレスリング代表選手で、日本体育大学で教員をしながらレスリング部のコーチをしていた事もあり、山本美憂さんと弟さんはレスリングを始めることになります。

山本美憂さんのレスリング始めは9歳で、周りよりもスタートが遅かったようです。山本美憂さんは1974年生まれで、父のオリンピック時代にはぎりぎり生まれませんでした。物心つく頃には父はレスリングを引退し、コーチに専念しています。

レスリングを先に始めたのは父の勧めもあって弟でしたが、練習を見に行くようになったことがきっかけで、山本美憂さんもおまけで始めるようになったようです。小学校時代は週末のみの練習だったようですが、階段走りに毎朝行かされていたようで、体力をつける為のトレーニング自体は毎日ずっとある生活を送っていました。

小学校に出ていた地域や全国の大会では何度か優勝を果たしていました。その時からすでに才能を発揮していたようですね。しかし小学校5年生の時にフィギアスケートをやりたい為に、1回レスリングの道を離れる事になります。

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両親は反対せず、子供が挑戦したいと思ったことにとことん熱中させてくれるタイプだったようで、毎晩スケートリンクに連れて行って練習させてくれたみたいです。外とリング内の温度差に中耳炎を何度か発症してしまった美憂さんは、向いていないかもという理由で再びレスリングの道に戻ることになります。小学校から祖父が教頭として携わっていた私立に通っていた山本美憂さんは、高校1年生まで同じ私立の学校に通い続けます。

中学1年生の時から大人と戦っていた美憂さんは、13歳で全日本優勝を飾ります。当時レスリングは世界選手権止まりで、オリンピック種目に認可されていませんでした。レスリング人口もそこまで多く無かったと言います。13歳で大学生を倒し優勝するのですが、筋力で敵わないためにスピード勝負をしていたそうです。

高校2年生の時に、違う環境でレスリングをしてみたいという思いからアメリカのアリゾナに行きますが、17歳、1991年に世界選手権優勝を果たします。13歳から年齢制限で出る事ができなかった世界選手権に、ようやく出れた!と嬉しい気持ちで一杯だったと言います。性格的にも世界連覇を狙うより、色々な体験をしたいという気持ちが強く、そこまで世界制覇に拘らず過ごしていたそうです。

世界選手権で1回戦に当たった子がアリゾナの子で、「ホームステイでこっちのハイスクールに通いなよ」と言われた事がきっかけで、英語を学びに行くことも兼ねてアリゾナに出向く事を決めたと言います。その子が高校も全て手配してくれていたようです。両親最初は驚いていたようですが、レスリングを頑張るという約束で、アリゾナ行きを許可してくれたそうです。

2年間アリゾナの高校に通いながらアメリカの大会にも出場し、男子以外には負けることはありませんでした。ずっと連覇で負け知らずだった山本美憂さんは、男子に負ける悔しさを知り、そこからさらに練習に火が付いたと言います。負けることから習う事・学ぶ事が沢山あると気づいたそうです。1993年に2回目の世界選手権に出場し、再度優勝を果たします。

代表権を得るために全日本の時期は一旦日本に帰国しています。山本美憂さんは、大会のたびに自分の中でテーマを決めているようで、優勝しても調子に乗ることは無かったようです。アメリカに転校した後、日本に残っている父は、「優勝した娘を遊ばせている」というレッテルを貼られていたようで、その汚名返上の為にも2度目の世界選手権も負けるわけにはいかなかったようです。

高校卒業後は、アメリカのサンタモニカ大学に入学しますが、結婚の為にすぐに日本に戻ってきてしまう為に19歳で中退する事になります。初めての旦那さんとの間に生まれた子供が、長男のアーセン君です。22歳の時の子供です。当時、出産のタイミングでやり残す事はないと選手を辞めようと思いますが、世界大会に出場するレベルの妹の練習相手がいないということで、父に呼ばれ再度レスリングの道に復帰する事になります。

復帰後、見事全日本で優勝し、ポーランドの世界選手権に出場する山本美憂さんですが、決勝戦で負けてしまい準優勝になってしまいます。17歳から勝ち続け、公式戦では久しぶりの敗北です。その時に母親が癌で余命わずかだったようで、体調が悪い中2回乗り継ぎをしてポーランドまで応援に駆けつけてくれたそうです。試合に負けた悔しさより、母に優勝を見せてあげられなかったことの方が悔しかったと語ります。

それからしばらくして妹・聖子さんが世界選手権で優勝を果たし、その報告を受けた後に55歳で母は亡くなったそうです。それから3ヶ月後、全日本で優勝を果たしたのを最後に、山本美憂さんはレスリング現役を引退します。その時に最初の旦那さんと離婚。レスリング解説などのテレビの仕事があった山本美憂さんは、その収入でシングルマザーとして生計を立ていたそうです。

その後2回目の結婚をし、妹・聖子さんのレスリング相手をしていた美憂さんは、再びレスリング選手として復活し、女子が初めてレスリング種目になったアテネオリンピックを目標に活動しますが、予選で敗北してしまいます。それから29歳で2回目の引退をします。伊調千春さんが当時のライバルだったと言います。3回目の復帰を7年後に果たしますが、その間に次男と末っ子の長女・ミーアさんが誕生します。

この復帰のキッカケも妹さんの練習相手だったようです。ロンドンオリンピックに挑戦しますが、復帰して半年後に予選があった事もあり、敗退してしまいます。そこで今後のレスリング生活を考えたときに、何回やめても復帰するのだから、自分はレスリングが好きだ。また引退してもどうせまた復帰するという事に気づき、だったら休んでる期間が勿体無いからそのまま続けてレスリング生活を続けようという発想に変わったそうです。


2011年に最後の復帰を果たしてからは、毎日毎日カナダのトロントでレスリングを続けるのですが、そこでコーチをしていたところ、カナダの国籍を取得して、カナダ代表として世界選手権を目指してみようという事になったのですが、パスポートが無いから出れないという言いがかりをつけられ、結局その時のオリンピック予選に出場する事が出来なかったそうで、そこで無念にもオリンピックの夢が終わることになります。アスリートにとって最高の舞台のオリンピックに出場出来なかった事が、山本美憂さんのレスリング人生の唯一の無念だそうです。

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