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呂布カルマ:現在を生きるラップ道の探求者

芸能人

呂布カルマの起源と成長

上半期TV出演ブレイクランキング9位と乗りに乗っているラッパーの呂布カルマさんは現在40歳で、兵庫県に生まれてすぐに大阪市内に引っ越しをして小学校卒業まで過ごしたそうですね。

中学校から名古屋で育ったそうですが、学生時代はボソボソと面白い事を言うクラスの人気者のような立ち位置だったそうです。陰キャと陽キャどちらとも絡めるようなキャラクターだったそうですね。

小学生の時はまだ音楽に興味がなかったそうですが、中学生になってラジカセを買ってもらってから好きになって音楽を聴くようになったそうです。

呂布カルマさんの学生の時はHIPHOPに触れる機会なんて年の離れた兄や不良の友達がいなければ身近な存在ではなかったそうです。だから岡村靖幸やフィッシュマンズなどを中学生の時は好んで聞いていたそうですね。

小さい時から呂布カルマさんは絵を描くのが好きで、漫画家になりたくて喧嘩漫画などバトル系の作品をずっと描いていたそうですね。

世代的には『ドラゴンボール』が流行っていた時で友達はそういった王道アニメを観ていたそうですが、呂布カルマさんは『ジャングルの王者ターちゃん』や『ろくでなしBLUES』が好きで読んでいたそうです。

小学生ながらジャングルの王者ターちゃんの声優が岸谷五朗さんだったのがショックだったそうで、神谷明さんか山寺宏一さんであってほしかったそうですね。小学生で声優が気になるとは珍しいですよね。

ターちゃんの良い所はドラゴンボールの筋肉よりもボディービルダーのようなリアルな筋肉を描いていたところが好きだったそうです。しかし、アニメ版ではドラゴンボールと同じような筋肉になっていて興味を失ったそうですね。

呂布カルマさんは絵が好きなのもあって描き方の細かい所に拘りがある少年だったんですね。そして、小学校6年生の時に『週刊少年チャンピオン』に出会って「バキ」にハマってからジャンプは卒業したそうです。

当時の人気で言うと「マガジン」「サンデー」からかなり離れて「チャンピオン」の人気があったので、バキの話なんてできる友達は中学生になるまでいなかったそうですね。

音楽も周りが『ラルクアンシエル』『GLAY』を聴いている時に、呂布カルマさんは『フィッシュマンズ』『THEATER BROOK』『BLANKEY JET CITY』を聴いていたそうです。

世の中的にはバンドブームで友達がバンド組んで活動していたそうですが、簡単なコピーバンドはレベルが低くて遊びでやっているようにしか見えなくてまったく興味がなかったそうです。

名古屋は私立の推薦が結構盛んな街で自治体の補助も手厚いそうで、通知表に1があっても行けるような高校に推薦で行ったそうですね。呂布カルマさんは勉強はまったくできなかったそうですね。

高校はヤンキーとオタクが多い学校だったそうで、夏休みは呂布カルマさん以外は友達がみんな金髪にして煙草を吸っていたそうです。呂布カルマさんは髪の毛をカラーするのは興味がなかったそうですね。

呂布カルマさんの両親はどちらもヘビースモーカーだったそうですが、こどもながらにあまり楽しそうに吸っているイメージではなかったそうです。義務的に吸っているというか中毒で吸っている悪いイメージがあったそうですね。

それを見ていたからか煙草にポジティブなイメージがなかったので、友達が煙草を吸っていても呂布カルマさんは吸わなかったし弟も煙草はまったく吸わないそうですね。こどもの頃の親のイメージが強烈なんですね。

呂布カルマ/ひろゆき R-指定バトルで爆売れ/売人ラッパーの横で〇〇し作詞…

プレビュー

クリエイティブな挑戦:ラップと生活

HIPHOPに触れ始めたのは高校3年生の時だそうで、『DragonAsh』が人気になって売れて『ZEEBRA』や『ラッパ我リヤ』が少しずつ陽の目を浴びてきて『RIP SLYME』が人気になり始めた時だそうです。

当時はディスソングのような名指しでディスる『公開処刑』みたいな文化はまったく分からずに聴いていたそうですが、サザンオールスターズの『吉田拓郎の唄』とかは少し知っていたそうですね。

ラップは自分が大人になってもやるとは思っていなかったそうですが、名古屋の芸術大学に推薦で行った大学1年生くらいから韻を踏むのは面白いとは思って韻を書いたりカラオケでラップの曲を歌ったりはしていたそうです。

芸大のイラストレーションコースに絵が上手くなって漫画家になりたいと思って入学した呂布カルマさんは、大学卒業後もフリーターになって漫画を描いて何かしら賞を獲ることを目標にしていたそうです。

しかし、学校も卒業して誰とも会わずに毎日ひたすら漫画を描き続ける孤独に耐えられなくなった呂布カルマさんは、たまに息抜きでラップも始めたそうですね。

ある日、クラブに遊びに行ったら「ラップ新人発掘イベントでやってみたいやつ募集」というような告知があったのでノリで応募してみたそうです。

そこでいきなり人前で書き溜めていた韻を使ってラップを20人程のレスポンスがある状態でやったのがかなり楽しくて、漫画より今はラップをやる方が楽しそうだと思ってのめり込んでやり始めたそうですね。

そのイベントでラップデビューする同じような人が4人いたそうですが、明らかに他の人より自分の方がラップが上手いなと感じて、お客さんからもそういった声が聞こえたのが嬉しかったそうです。ラップは天性のものですかね。

そこから漫画を描かずにフリーターで駆け出しラッパー暮らしが始まったそうです。大学の時も就活せずに漫画家を目指してフリーターになったので、親はずっと漫画を描いていると思っていたそうですね。

今ではYouTubeで1曲バズれば人気になるラッパーもいますが、当時は現場に出て顔を覚えてもらってライブイベントに呼ばれる回数が増えるという地道な活動をするしかなかったそうです。

当時は「M.O.S.A.D.」というグループがあって、名古屋のラッパーはみんな「M.O.S.A.D.」の影響を受けて同じようなスタイルで、オリジナリティを確立できている若手ラッパーは少なかったそうです。

みんな同じようなバスケットシャツに坊主とかドォラグ巻いたりニューエラ被っていたりと、一見してHIPHOPだなという感じの若者が同じ感じの曲を歌っていたそうですね。みんな特徴がない同じような雰囲気だったんですね。

ラッパーは高校生や大学生で呂布カルマさんは23歳だったので周りより少し大人だったそうです。その時から呂布カルマさんはオールバックに柄シャツスタイルでずっとやっていたので逆に珍しくて目立っていたそうですね。

呂布カルマとしての認知とブレイクスルー

流行っているトレンドを追わない性分のおかげで周りのラッパーと一線を引けて目立つことができたんですね。人が知らないものが好きだったりみんなが選んでいるだけで興味が無くなる性格が良かったそうです。

かなり早い段階で名古屋のアンダーグラウンドの中ではギャラは少なくてもイベントの出演回数は多くて、仕事をしながら毎月10個ほどのライブに出演するようになったそうです。

しかし、ラッパーの世界は「日本語ラップ冬の時代」と言われるような状況だったそうで、東京のごく一部の人気ラッパーはラップだけで食べていましたが名古屋ではラップ専業の人はいなかったそうです。

ラッパーは仕事しながらやるというのが当たり前だったので、呂布カルマさんも一生バイトや就職しながら小遣い稼ぎの趣味として続けていくという感覚だったそうです。確かに食べれるのは一握りでしょうね。

呂布カルマさんは20代前半は害虫駆除のバイトをして、20代後半は就職して働きながらラッパーをしていたそうです。ちゃんと就職して収入がありながらやっていたら生活は安定しますよね。

例えば、病院や検査場に試薬をトラックで運ぶ配送の仕事をしていた呂布カルマさんでしたが、配送の仕事なのに免停になったり、決められたことをやるのが苦手だったそうで最後は自主退職に追い込まれたそうですね。

その後、個別指導塾の教室長に転職して生徒の勧誘や保護者との面談、学生のアルバイトを面接して生徒と先生をマッチングさせたりする全体運営をやっていたそうです。

呂布カルマさん自身はまともに受験していないのに受験生の進路相談もしていたそうで、名アドバイザーが名受験生だったとは限らないんですね。しかし、この仕事は呂布カルマさん的にも面白かったそうですね。

個別指導塾に生徒と親が来て進路の相談もたくさんしたそうですが、生徒もどこにいきたいか何がやりたいかなどカッチリ決まっていないことが多いそうです。そこを呂布カルマさんが掘り下げていったそうです。

「本当は何をしたいの?何をやりたいの?」というのを汲み取って、そのためにどの学校に行くべきかという話を進めていく過程で色々なドラマがあって楽しかったそうですね。

生徒も思春期なので親にも素直になれなかったりして本当のことを言えていないのを、呂布カルマさんには泣きながらポロポロと言い始めたりするのは結構ドラマチックだったりしたそうです。

ちょっとした映画を見ているような感覚になったこともあったそうで、最初は不貞腐れてやる気がなさそうな生徒が最後には「頑張ります!」みたいになって出ていくのは素敵だったそうですね。

仕事はかなり忙しかったらしく、メンタルは強いので大丈夫だったそうですが体はかなり限界だったようで、今まで出たことが無かった蕁麻疹が身体に出たりもしたそうです。仕事を辞めたとたん蕁麻疹は治ったそうですね。

28歳の時に結婚した呂布カルマさんですが、2015年頃になると音楽だけで食べて行けるようになったので個別指導塾も退職して音楽1本に絞ったそうです。

2014年の『UMB GRAND CHAMPIONSHIP』でR-指定さんと良い勝負をしていた頃には名前が全国区になっていたので、ライブ出演のギャラが上がったり出した音源が売れたりで食べることは出来たそうですね。

MCバトルはお客さんが勝敗を選んで出演しているラッパーよりも分かっていない人が判断するので、その勝敗で一喜一憂していたらやってられないそうです。

だから勝っても負けても今は「ふーん」という感じであまり何も思わないそうですね。それでも名古屋から東京のMCバトルに呼ばれ始めた時は「コイツこれで引退させてやる」くらいの気持ちでやっていた時もあったそうです。

別に友達でもないし、大したことないのにフリースタイルでチヤホヤされている奴は気に食わなかったそうです。ただ何回も会ってみると意外とみんな良い人が多かったそうで、そんな気持ちも今ではなくなったそうですね。

将来への展望とバランス

昔は今のようにYouTubeが無くて勝敗や優勝者しか世間には伝えられないので、「優勝する」という事実が大切だったそうです。しかし、今は1試合ずつ全部YouTubeにアップされるので勝敗があまり関係ないそうです。

1試合で面白い試合をすればバズる時代になって、負けても自分のスタイルを見せることで逆にファンが増えたりすることもあるので考え方はかなり変わってきているそうですね。

まさにフリースタイルダンジョンで「Rー指定」さんとラップバトルして、途中で呂布カルマさんが「こいつ強えわ」と言って番組史上初のバトル中に負けを認めた伝説の試合なんかがそうみたいです。

これが話題になって負けたけど見ている人の印象に残ったり、勝つより得られたものが多かったそうですね。フリースタイルダンジョンに出たのは呂布カルマさんにとっても大きな転機になっているそうです。

『マッドマックスTV論破王』の番組でひろゆきさんにディベート対決で勝利してからコメンテーターの仕事が入ってくるようになったり、フリースタイルダンジョンに初めて出た時と同じようなバブル状態になったそうですね。

「ひろゆきを論破した男」ということで各方面から色々なオファーが来たそうです。こういった様々な仕事の話が入ってきている時は自分の音源を作ったりする時間はなくなるそうです。

それでも面白そうなオファーがあるなら受けてやっているそうですね。今までにアルバムも6枚出していたりと音源は散々やって来たので、新しい事に触れるチャンスがあるのは自分の人生の幅も広がるし嬉しいそうです。

今は仕事が仕事を呼ぶ状態なので流れに任せているのですが、子どもが3歳と8歳なので奥さん的には呂布カルマさんがあんまり忙しくなりすぎると子育てが大変なのでほどほどに売れてくれれば良いと思っているそうです。

ワンオペ育児になってしまうと奥さんも大変ですが、東京での仕事も増えているので週の半分は東京にいて名古屋に帰れないときもあるそうです。稼げて家計は助かりますが忙しすぎるのも悩ましいんですね。

今後もどんどんラップは上手くなるし表現も研ぎ澄まされて、同じテーマについて歌っても20歳の時と50歳の時では違うものになるので、呂布カルマさん的にラップは永遠に続く「ラップ道」だと思っているそうですね。

スポーツなどの勝ち負けを決める競技とは違って、今の自分の現在地を確認するために常にやり続けるものという感じだそうです。

呂布カルマさんは自分のことを厳密にはHIPHOPにそんなに興味がないんじゃないかと思っているそうです。ラップという歌唱法や韻を踏む方法論には惚れているし、考え方にもかなり影響は受けているそうです。

それでも今のHIPHOPや歴史やファッションなどHIPHOPを構成する要素にはラップ以外にほとんど興味はないそうです。そのかわりラップは大好きなのでおそらく60歳になってもラップはやっていると思うそうですね。

呂布カルマ

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