元猿岩石・森脇和成の新たな挑戦:舞台裏の日々
2004年に猿岩石を解散して芸能界を引退した森脇和成さんは現在49歳だそうです。今では芸能界に復帰して俳優活動や芝居をやっているそうですね。
舞台の収入だけでは生活できないので、知り合いの飲食店でバイトをしながら食い繋いでいる状態だそうです。
森脇和成さんの出身は広島県の安芸郡熊野町で、父親は車の部品を作る工場で働いていた普通のサラリーマン家庭で育ったそうです。小学生の時から明るい性格で友達も多かったそうですね。
元猿岩石 森脇/電波少年で社会現象もブーム去り解散 芸能界引退/元相方有吉が天下取り… – YouTube
元猿岩石・森脇和成の原点:広島の地で育む夢
中学生や高校生の頃はヤンキーの道に走って悪さもしたそうです。素行が悪くなりながらもバンド全盛期の時代背景もあり友達とバンドを組んでボーカルをやっていたそうですね。
バンドは女の子にモテたいからやっていたそうで、ライブなんかでボーカルをやっているとそれなりにモテたそうですよ。学生の頃って文化祭で歌ったりして上手いだけでも女子生徒からモテますからね。
森脇和成さんは高校2年生の秋に中退することになったそうですが、学校から自主退学をお願いされたということで素行はかなり悪かったみたいですね。
元猿岩石・森脇和成:建設業からお笑いの世界への飛躍
高校を中退した森脇和成さんでしたが、ある日バンドメンバーが30万円程もするギターを買ってきたそうで「なんでそんなにお金持ってんの?」と聞いたそうです。
友達から兄貴が働いている建設会社でバイトをして稼いだことを知った森脇和成さんは、兄貴を紹介してもらってコネでその建設業に就職したそうです。コネがあれば簡単に就職できるんですね。
建設会社に就職することが決まった森脇和成さんは、職場が広島市内だったので家からは遠くてすぐに一人暮らしを始めたそうです。17歳で家を出たんですね。
2年半ほど真面目に建設会社で働いた森脇和成さんでしたが、友達伝いで高校の友達の有吉弘行さんがオール巨人師匠の弟子になったという噂を聞いて驚いたそうです。
有吉弘行さんの友達でしたが、芸人の弟子になるほどお笑いが好きだとは知らなかったそうですね。しかし、そこから1年ほど経った頃に有吉弘行さんがオール巨人師匠の弟子を破門になって広島に帰って来たそうです。
時間があった有吉弘行さんは森脇和成さんの家によく遊びに来るようになったそうですね。そして、有吉弘行さんからお笑いの魅力を色々と聞かされるようになったそうです。
有吉弘行さんの説得で徐々に気持ちが揺らぎ始めた森脇和成さんは、今の仕事とお笑い芸人になる道どちらが良いか考えたそうです。
森脇和成さんは建設業の仕事で月収が50万円程あったそうで、同世代よりかなり給料が良かったみたいです。お金のことを考えても芸人で売れなかったらどうしようと悩んだそうですね。
すると有吉弘行さんから「芸能界で成功したら稼ぐ額なんて桁違うぞ」と言われたそうで、気付いたら仕事を辞めて19歳の時に2人で東京に行っていたそうです。若い時は挑戦した方が良いですしね。
東京に来た森脇和成さんでしたが、最初は有吉弘行さんの親戚の家が東京の町田にあって部屋が余っていたので2人で居候させてもらったそうです。
その後、有吉弘行さんから「芸人は下積み時代の話でヤバいエピソードも必要だろ」と提案があって2人で東京ドームの周りで野宿生活もしたそうです。その経験が後に電波少年のヒッチハイク企画で活きるんですね。
野宿を経験した後に下北沢の6畳1間風呂なしのアパートに2人でルームシェアすることになるそうですが、そこでこれからどうすれば良いのか有吉弘行さんと話し合ったそうですね。
若者2人で東京に来て無所属で何をして良いかも分からなかった森脇和成さんでしたが「芸人は太田プロじゃない?」と有吉弘行さんから提案があって事務所に電話したそうです。基本的に有吉弘行さん発信なんですね。
太田プロの事務所に問い合わせをした電話で「月に1回、太田プロのライブで素人のネタ見せコーナーがあってそこに出るためのオーディションを毎週やっているので来てください」と言われたそうです。
オーディションに受かってライブでネタ見せをして、お客さんのアンケート人気投票で上位をキープしていれば太田プロに芸人として所属できるという話だったみたいですね。
そのオーディションに猿岩石として1年間挑み続けた結果、見事に太田プロ所属になったみたいですね。21歳の頃にはライブでメインコーナーにも出演できるようになり、深夜放送のネタ番組にも呼ばれるようになったそうですね。
森脇和成さんとしても若手芸人としては良いスタートダッシュが出来たと実感していたそうです。
順調に芸人としての道を歩き始めた猿岩石ですが、ある日事務所から『進め!電波少年』のオーディションがあるから行ってみろと言われたそうです。
この頃は電波少年が既に人気番組になっていたので芸人はみんな出たいと思っていたそうで、猿岩石の2人としても出演はしたいと思ってはりきって1次オーディションに行ったそうです。
森脇和成の意外なオーディション合格秘話
オーディション現場では電波少年の上層部が面接官をやっていて「何かやってみて」と言われたので、猿岩石の2人はお互いにひたすらビンタをやり合うだけというネタとも何とも言えないものを見せたそうです。
スタッフが「もうやめて、もうやめて」と止めに入るほどビンタをやり合ったそうで、森脇和成さんは心の中で「これは落ちたな」と思ったそうですね。すると結果はなぜか合格で2次審査に進めたそうです。
猿岩石・森脇の挑戦:手強い2次審査を乗り越えて
2次審査では「火打ち石をやります」と言って、お互いに頭突きし合うだけというネタを見せたそうです。またもスタッフが「もうやめていいから」と止めに入るほど頭突きをしあっていたそうですね。
頭突きをしあうことで火打ち石を表すのがちょっと想像しただけで身体を張っているのが分かりますね。現場では手ごたえを感じていなかった森脇和成さんでしたが2次審査もなぜか通過したそうです。
見事に最終審査へ進んだ猿岩石でしたが、最終審査では自分たちの色々なエピソードトークをする時間があったそうです。ただ、2人はフリートークの実力がなかったので面白い話ができなかったそうです。
しかし、東京ドームの周りで野宿していましたというエピソードを話したことがヒッチハイク企画に猿岩石が選ばれた要因ではないかと森脇和成さんは思っているそうですね。
審査の時点では猿岩石の2人も企画を知らないので、まさかユーラシア大陸をヒッチハイクで横断することになるとは夢にも思っていなかったそうです。
最終審査に合格して視聴率の良かった電波少年に出演することが決まって喜んだ森脇和成さんでしたが、電波少年でやる企画を聞いていなかったので後日事務所に確認したそうです。
すると、香港で『言葉が通じない場所で売れない若手芸人がコントをやったら受けるのか』ということを検証するロケ企画だと聞かされたそうです。
ヒッチハイク大陸横断へ:森脇和成の冒険とサバイバル
猿岩石の2人は単純に香港に行けることが嬉しかったそうで意気揚々と2泊3日の用意を持って香港に行ったそうです。結果的にはそれがドッキリで『ヒッチハイクでユーラシア大陸横断企画』が突然始まったそうですね。
ヤラセなしで本当に聞かされていなかった猿岩石の2人でしたが、最終的に190日かけて香港から海を渡ってロンドンに行ったんですね。最初に10万円が入った封筒を貰って移動はヒッチハイクのみというルールだったそうです。
かなり節約しながら使ったにも関わらず10万円はすぐになくなったそうで、なんとかバンコクまでヒッチハイクで行ってバイトを探したそうです。言葉も喋れないのにジェスチャーだけですごいですよね。
バンコクでとんかつ屋さんに頼み込んで2週間だけ働かせてもらって稼いだお金で食い繋ぎながら少しまた進むという繰り返しだったそうですね。
カメラ外では、本当に4日間ぐらい飲まず食わずでへとへとになっていた猿岩石の2人の目の前でスタッフがコーラを飲んで残った分をわざと捨てたりしていたそうです。
本気で自分たちを追い込む気だと分からせるためにスタッフもやっていたそうですが、森脇和成さんは空腹も極限状態だったのでムカつくことすらできなかったそうですね。人間怒るのも疲れますからね。
泊まるところを確保できなければ本当に野宿だったそうで、パリの旧市街でサーカスに泊まっていた時にトイレが無かったので近くにあった畑で野糞をしていたら家の人に見つかってショットガンを向けられたそうです。
カメラで撮影もしていない夜に騒ぎになってなんとか許してもらったそうですが、森脇和成さんは野糞が理由で危うく死ぬところだったそうですね。治安の悪い所もあったのによく無事でしたよね。
猿岩石としての栄光とその現実 ― 森脇和成の葛藤
本当にユーラシア大陸をヒッチハイクで190日かけて必死に横断していた猿岩石の2人でしたが、当時はネットも発達していないので情報は何も入ってこなかったそうです。
日本では社会現象になるくらい猿岩石が人気になっている実感は全くなかったそうですね。だから190日ぶりに日本に帰ってくるところを番組で大々的に生中継された時に驚いたそうです。
帰国から1年間は猿岩石フィーバーで休みなく仕事をする日々だったそうですね。鉄は熱いうちに打てじゃないですが、帰国してすぐに『白い雲のように』をリリースして飛ぶように売れましたよね。
森脇和成さんからすると、お笑い芸人が真面目な歌を出すのはかなり気が引けたそうです。学生の時にバンドをやっていたので藤井フミヤさんから作詞してもらうなんて考えられないことだったそうですね。
とにかく来た仕事を言われるがままこなしていったブレイク期間は3年程だったそうで、急に売れてお笑い芸人としての実力が付いていなかった猿岩石には緩やかに仕事が無くなっていったそうです。
芸能界を去り、一般社会人へ ― 森脇和成の新たな一歩
徐々に仕事が減って暇になり時間もできたので夜の飲食店でも働き出した森脇和成さんでしたが、2004年に猿岩石を解散したいと有吉弘行さんに伝えて芸能界を引退したそうです。
不安定な芸能界と飲食店の掛持ち生活がしんどかったみたいですね。
芸能界を引退した森脇和成さんは、そこから普通の社会人として働いたそうです。知名度はあったので、どこに行ってもカラオケでは『白い雲のように』を歌ってくださいと言われて素直に歌っていたそうです。
一般の社会人になって数年経過すると上手く馴染んで過ごしやすくなっていたそうですが、有吉弘行さんが再ブレイクを果たした時から過ごしにくくなったそうです。
有吉弘行さんと比べられてしまうようになったのが理由ですね。「有吉弘行さんとは会っているの?」とか「元相方は頑張っているのに」とか言われたりするようになって居心地が悪くなっていたそうです。
それでも今ではシンプルに有吉弘行さんのことを凄いと思っているそうですね。猿岩石の劣化スピードを送らせているのは有吉弘行さんが芸能界でトップ層にいるからというのは認めるしかないですからね。
2015年に芸能界に復帰したきっかけは突然オファーが来た『しくじり先生』の撮影だったそうです。輸入卸の会社で7年間サラリーマンとして営業をやっていた森脇和成さんは営業職が不向きで仕事が辛かったそうです。
週末になったら偏頭痛がするくらいストレスが溜まっていた森脇和成さんにしくじり先生の出演オファーが来て、番組出演にあたって自分の過去を細かく振り返ったそうですね。
芸能界復帰と舞台への情熱 ― 森脇和成の再起
その時にお芝居がしたい自分に気付いて、すぐに会社を退職して芸能界復帰を決めたそうです。しくじり先生への出演が後押ししてくれたんですね。
森脇和成さんは自分の過去を振り返った時に、台本のある仕事が好きな自分に気付いたそうです。有吉弘行さんとやっていたコントや舞台の仕事、映画やドラマの仕事が一番やっていて楽しかったそうです。
自分でアドリブを聞かせてその場で臨機応変にやるよりも、やることが決まっていてそれを自分の中で煮詰めていく作業が好きなんですね。
実は2007年に結婚をしていた森脇和成さんでしたが、2013年に離婚して1人になったことも社会人として安定収入がない芸能界に復帰して挑戦しようと思った1つの要因だそうです。
現在『劇団ノーティーボーイズ』というコメディー集団に所属している森脇和成さんは、規制が多くなっているテレビではできないことが舞台ではできるということに魅力を感じているそうです。
この自分が面白いと感じている舞台をお客さんにどうやったら生で多くの人に観てもらえるか考えているそうです。映像で見てもらうのではなく劇場で生で見てもらうことが大切だそうですね。
舞台が大きくなりすぎると芝居も大きくしなくては伝わらないので、そのあたりのキャパシティーも難しいそうです。やはりお客さんにも自分の目で細部まで見えるくらいの距離感で見てもらうことで伝わるものがあるみたいですね。
映画館なら1000円~2000円で観ることができますが、舞台は5000円前後は当たり前なのでお金を払って劇場まで足運んでもらって2時間の作品を見てもらうのはなかなか難しいそうです。
それでもお客さんの笑い声とか息遣いと合わさって舞台で作品が仕上がっていく生の良さをたくさんの人に感じて欲しいそうですね。
森脇和成
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