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モノマネ芸人・河口こうへいの現在

芸人

河口こうへいさんは身長160cm。レスラーの中邑真輔選手のモノマネをしています。中邑選手が大きいので、先入観で大きいと思い込んでしまう為、観客席から「小さい」と声が飛んでくると言います。河口こうへいさんは現在41歳。モノマネ芸人として25歳から活動しており、芸歴16年目になります。

最近は、お笑い芸人モリタク!さんと2人でユニットでモノマネをし、お笑い大会で優勝を果たしています。モリタク!さんとは、千鳥、ハライチ、笑い飯さんなどのお笑いコンビのネタを2人で披露するというモノマネ芸を行っています。

河口こうへいさんは、千鳥のノブさん、ハライチの澤部さん担当です。相方のモリタク!さんが顔、河口こうへいさんが声のモノマネを担当しています。元々、モリタク!さんもモノマネ芸をしており、たまたまお互いがお笑いコンビの別の方をモノマネしていた事で、コンビを組んで一緒にやってみようという事になったと言います。

血繋がりのない母の●待、父はマルチ商法の餌食で障害者の女性と再々婚/芸能人Kと熱愛も…/モノマネ芸人・河口こうへい


コンビを組んでモノマネを始めた訳では無いという事ですね。河口こうへいさん単独で披露するモノマネネタとして、コント赤信号リーダーの渡辺正行さんがあります。本人から直接許可を頂いたそうです。

河口こうへいさんは石川県金沢市出身。家庭環境が複雑で、3回母親が変わったと言います。母親が変わる度に転校するという学生時代だったようです。保育園の時、実の母と姉が出ていき、父と河口こうへいさん2人の生活が始まります。父は離婚してすぐに、2番目の母と再婚します。その時河口こうへいさんは幼稚園。

実の母との離婚理由は、父が当時行っていた主催の劇団役者を辞めて、普通の生活を送って欲しいという願いからだったそうです。2番目の母も実の母も、父が主催する劇団の生徒だったようです。河口こうへいさんは当初、2番目の母と仲良くやっていたそうですが、小学校低学年の時に弟が出来てから、母が自分に対して急に冷たくなってしまったと言います。

ひどい時にはご飯も貰えなかったそうです。それに気づいた河口こうへいさんの父親が、2番目の母に「なぜこうへいを可愛がらないんだ」と喧嘩しているのをよく見ていたと言います。小学校2年生の時、母親が書いた「こうへいとてっぺい(弟)が大好きでした。買い物に行ってきます。じゃあ」という置き手紙を見つけ父親に報告すると、「母親はもう帰ってこないよ」と言われ、そのまま本当に帰ってこなかったそうです。

しかし河口こうへいさんは、からのイジメから解放されると、とっても嬉しかったと言います。しばらくすると、役者をやっていた父がマルチ商法に手を出し帰って来なくなってしまったそうです。それから河口こうへいさんは、小学校2年生にして、小学校4年生までの2年間、1人暮らし状態になるのです。夜だけに帰ってくる父は、河口こうへいさんに500円だけを置いてまた朝になると出かけて行きます。

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その500円で毎日スーパーや友達の家で外食をしていたようです。小学校2年生という事もあり、洗濯が出来なかった河口こうへいさんは、1年間洗っていない同じ下着と洋服を着ていたそうです。お風呂は銭湯に行っていたそう。それを見かねたおばあちゃんが河口こうへいさんを父と引き離し、引き取ってくれたと言います。そこからは、おばあちゃん、おじいちゃん、河口こうへいさんの3人暮らし。しばらく平和な日々を過ごします。父もようやくマルチ商法を辞め、おじいちゃんと一緒に保険屋として働くようになります。

中学2年生の時に父親が再び再婚し、3番目の母親が来る事になります。当時父親は介護の仕事も手伝っていたらしく、この母親に障害があることに同情し、引き取ったそうです。丁度その時、2番目の母の息子である弟のてっぺいが帰ってきます。お母さんが再婚するから、弟を引き取ってくれと言って父に預けたそう。今まで面倒を見てくれていたお婆ちゃんが、精神病で幻覚を見るようになります。喧嘩もするようになってしまった河口こうへいさんは、家を出る事を決心し、1番目のお母さんとお姉ちゃんの所に戻ります。

そこで苗字も変わったそうです。1番目の母とは定期的に会っており、すぐに馴染む事が出来たようです。河口こうへいは本名で、1番目のお母さんの所に戻った時の苗字だそうです。中学生までに4回の転校を経験した河口こうへいさんは、友達が全く出来ませんでした。仲良くなった頃にバイバイの繰り返し。

現在も、小・中で連絡を取っている友達は1人も居ません。高校時代に組んだバンドで歌が上手いとチヤホヤされた事がキッカケで、卒業してからの2年間お金を貯めてバンタン芸術学院のタレント科のボーカルコースに入学しますが、東京の歌が上手い人の多さに、自分では太刀打ち出来ないと歌の道に進む事を諦めます。

その時の講師が、「千の風になって」の秋川雅史さん。歌を諦めた河口こうへいさんは、2番目の夢だったモノマネの道に進むことを決意します。当時はTUBEさんや、ドラゴンボールの影山ヒロノブさんを歌っていたようです。歌モノマネに挑戦しようと、お笑い芸人の講演会を見に行った河口こうへいさんは、プロのモノマネのレベルの高さに驚き、これでは売れないからバイトと並行してモノマネをしようと思ったそうです。あまり学が無かった河口こうへいさんは、水道屋さんのバイトでもパイプの長さが測れず、1年間研修バッチが取れなかったそうです。

25歳でオーデイションを受けますが、北の国からの田中邦衛さんのモノマネをしていたと言います。前説も1年間経験し、やっと本編に出れるメンバー入りを果たします。人によって尺が決まっているようで、河口こうへいさんは最初3分の持ち時間で芸を披露しました。河口こうへいさんが初めてテレビ出演したのは、「ものまね番組」の新人のコーナー。27歳で現在の事務所であるホリプロに入ります。

その時は、島田洋七さんや地井武男さんなどのマニアックなモノマネをやっていたそうです。
河口こうへいさんは以前、キサラで出会ったお笑い芸人・キンタロー。さんと付き合っていたそうです。新人枠で入ってきましたが、当時からキンタローさんは前田敦子さんのモノマネをしており、クオリティの高さに驚いたと言います。番組でキンタロー。さんからの告白を受けて付き合いましたが、1年で別れてしまいました。

別れた後に色々な場所でキンタロー。さんの名前を出していると、「まだ私の名前を利用しようとしているのか!」とキンタロー。さんに怒られたそうです。河口こうへいさんは、幼少期のトラウマで、未だに電気を消して1人で眠る事が出来ないと言います。東京に来てからは1人暮らしを経験した事がなく、基本ルームシェアで過ごしていたそうです。

キサラ時代は、5万あれば生活出来ていたようで、お笑いが出来て楽しいという気持ちが勝っていたと言います。同じホリプロ事務所のホリさんが、河口こうへいさんを売り込み、モノマネ番組で決勝まで行けたそうで、そこからもう1度番組に呼んで貰えたそうです。3度目で優勝を勝ち取る河口こうへいさんですが、コロナの時期と重なり営業が全て中止に。

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泣く泣くバイト生活が始まります。Ubereatsのアルバイトをやっていたそうです。周りのモノマネ芸人は、配信やバイトで生活を繋いでいるようです。河口こうへいさんは、実家に戻って生計を立てようと考えるのですが、父のタバコの不始末で、戻った次の日に実家が全焼。現在は父とは友達のような良い関係を築けていると言います。

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