田中雄士の起源 – 学生からリーダーへ
経営者とラッパーをやっている田中雄士さんは千葉県千葉市出身だそうですね。東急が開発した新興住宅街で田舎ですがアメリカの田舎町みたいな場所で育ったそうです。
中学2年生から新しく新設された学校に通うことになったので、2年生なのに先輩がいなくて最上級生になったそうです。中学の先輩がいないって珍しいですよね。
中学生の時はバスケ部の顧問の先生が勝手に田中雄士さんをキャプテンにしたそうです。不良ではなく元気があって周りを引っ張っていく印象の良い真面目な学生だったそうです。
キャプテンなのに周りの方が上手くて試合に出れないことも多かったそうですが、クラスの人気者で田中雄士さんが入部するから俺も入ろうという同級生が多かったそうです。
昔からリーダー気質で、新しい学校で校則をどうすれば良いなどを校長や学年主任に呼ばれて一緒に決めるような大人と話せる子供だったそうです。
両親は自営業で中華料理屋のオーナーだったそうです。割と自由に育てられたそうですが、当時は学生の時に渋谷とかに遊びに行くのは治安の悪さもあって少なかったそうです。
田中雄士さんが不良の道に入る変化が起きるのは高校になってから友達と夜遊びを覚えだした頃からだそうです。高校デビューというやつですね。
田中雄士とKGB – 不良の道から経営者へ
高校1年生の時に津田沼あたりで不良仲間たちといたらチーマーとかギャングが「俺らの支部にならないか?」と誘ってきたので仲間たちとギャングチームの傘下になったそうです。
東京に本部がある『KGB』という200人くらいのチームだったそうですが、大きな事件の後に田中雄士さんが2代目リーダーになったことで本部が千葉になったそうです。
暴走族ではない不良集団のチームで、渋谷を丸腰では歩けなかった時代でダボダボパンツにマチェーテという長いナタを入れて遊びに行っていたそうです。
当時はSNSも無かったので渋谷に集まっている人こそイケイケの奴らというイメージだったそうで、そこで楽しく遊ぶ為には人数が必要だったそうですね。
高電圧に改造したスタンガンとかも持っていて、武装もファッションの一部のような感覚でしていたそうです。たまに警察に没収されることもあったそうですね。
パー券を捌いて資金集めしてチームを大きくしていく活動資金にあてたりしていたそうです。高校生でシノギみたいなそういった動きをしていたんですね。
武器と金と人数がいる無敵の集団にしておけば争いも起きないという考えがあったそうで、決して争いを好む集団ではなかったそうです。ものは言いようですよね。
KGBは色々な暴走族やチーマーをどんどんと吸収していって1000人規模に膨れ上がったそうですね。田中雄士さんは高校生の時に1000万円の年収があったそうです。
田中雄士の変革 – 格闘技と音楽の探求
高校2年生の時にロレックスのサブマリーナを買って付けていたそうです。高校生離れした武力と経済力ですよね。
2歳年上の初代リーダーがチームの傷害や恐喝が多くて警察に解散届けを提出して一度はチームを解散したそうですが、2代目に田中雄士さんがなって再始動するんですね。
1年程リーダーをやってから同級生にリーダーを譲ったそうです。それでも24歳くらいまではチームのリーダー格ではいたそうです。
実は田中雄士さんは高校在学中に逮捕されてしまって中退したそうですが、大検取ってKGBに所属しながらも大学には行ったそうですね。事業家になりたいと思っていたそうです。
大学を卒業してキャバクラ経営を始めて、オーナーをやりながら不動産会社に勤めたそうです。その時に結婚した奥さんがネイルサロンを経営したいと言ったそうです。
田中雄士の現在と将来 – ラップでメッセージを伝える
それでスタートしたネイルサロンが10店舗まで拡大できたので、キャバクラと不動産会社を退職してネイルサロンのオーナーになったそうですね。
KGBの後輩がたくさんいたので拡散するのは協力してもらえたりと繋がりが多いのが強みだったそうですね。人脈って大事ですよね。
32歳の頃にネイルサロンの経営も落ち着いたので、こどもの頃に空手で黒帯まで行ったのに辞めてしまった格闘技に興味が出てきてキックボクシングを始めたそうです。
ダイエットも兼ねてキックボクシングをやっていたそうですが、周りの人から「結構強いからプロの試合に出てみたら?」と誘われたそうです。
それをきっかけに試合に出場したそうですが、2連敗して3試合目も引き分けで終わったそうです。それが悔しくてタイやシンガポールで本格的に練習したそうですね。
事業も並行してやりながら35歳で初のWBKF王者にまでなったそうですね。社長業をやっていたからこそ時間を自由に取れて練習できたそうですね。
40歳で初めて『遅咲きのヒーロー』という曲をリリースした田中雄士さんは、そこから1年に1曲程度のペースで曲を発表するようになったそうです。多才ですよね。
そして、ビクターからメジャーデビューしたことにより『AK-69』『Zeebra』ともコラボ曲を発表したそうです。
「令和の虎」で年商10億の虎として出演したりもしていますが、現在自分が上に行きたいのは音楽活動でヒップホップの思いや気持ちを世に広めたいそうです。
年商10億円社長でWBKF王座の次は音楽で上り詰めたいんですね。プレイリストのトップ100に必ず入るような状況になれれば上のステージに上がれるような気がするそうです。
40歳でデビューして売れ始めるラッパーもなかなかいないですよね。KGBにいる頃はB-BOYとかラッパーは狩る対象で自分たちギャングスターに比べたら弱く見えていたそうです。
今はリスペクトもあるしそんな風には思っていないそうで、むしろ若い時からなんで音楽やっていなかったんだろうと後悔しているそうですね。
Zeebraさんとコラボした『Life is a Battle』という曲は若い頃の気持ちや心情を入れた曲だそうです。
「やんちゃしていく中で人も傷つけたけど振り返ったり自問自答したらこっちがやられてたので救われたぜ足元」など反省を振り返ったリリックも入っているそうです。
田中雄士さんは自分が経験して今だから言えることで、変に地元のしがらみにとらわれて不良集団にいるとかしないで自分のやりたい事をした方が良いと若者に伝えたいそうです。
やはりそういった集団にいるとリスクもあるし、周りに流されて良い方向に行きにくい部分も出てくるそうです。その中で真面目にやってたらダサいとかありますよね。
警察に逮捕されたり、喧嘩や抗争で命のリスクもあるし関わらないに越したことはないと心から思っているそうですね。若者はなぜか不良になる人が少なからずいますもんね。
田中雄士さんは自分の人生に後悔はあまりないが反省はしている部分は多いそうです。若い頃に戻れるなら音楽や格闘技に早いうちから真剣に取り組むそうです。
自分が若い頃と同じような境遇にいる若者に出会ったら自分の胸に手を当てて好きなことや本当にやりたいことをとにかく早く始めた方が良いとアドバイスするそうですね。
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