カイヤさんは20代の頃に日本を訪れ、現在はコロナの影響でイベントが沢山中止になっており、Youtubeが活動を主になっています。
ボビーオロゴンが1番の親友。
子供は男の子と女の子の2人いて、現在はもう成人しています。
今は子供と3人で暮らしています。
カイヤさんはアメリカのイリノイ州出身ですが、ドイツ人が200人しかいないジャーマン・バレーという田舎の町で何もなかったそうです。
母はネイティブアメリカンのスー族で、父はドイツアメリカのハーフになります。
父は町長。母は郵便局長のお嬢さんです。
カイヤさんは4姉妹の3番目。
カイヤという名前は母から受け継ぎ、キャロリン・ジョー・ハイガーが本名。
普段はジョー(Jo)と呼ばれていたそう。
芸名のカイヤは、人と人の間に入って仲良くさせるという意味です。
カイヤ/仕事の無い夫をテレビに出す為8人の男と浮気、嘘の鬼嫁演じるも…
4姉妹全員金髪のブルーアイ。
スポーツやバイクが好きだったそうですが、バイクの無免許運転や、10歳で車を運転するなど、昔からヤンチャだったそう。
性格は恥ずかしがり屋で、誰とも話せないほど人見知りだったそうです。
小さい頃から男の子とバスケットボールやバレーボールなどのスポーツで遊んでおり、女の子の友達はいなかったそうです。
足がとても早かったそうで、イリノイ州のリレーで1番になるほどの実力者だったそう。
小学校はわずか15人。
中学校が町になく、片道30分バスに乗って違う町まで通っていました。
カイヤさんが学生の頃、父に厳しく育てられたそうで、彼氏とデートをするなんてもってのほかでした。
18歳まではピアスも禁止。
家に招いて一緒に遊ぶくらいは許可されたそうですが、正式な彼氏は父との約束通り18歳まで作らなかったと言います。
小学校5年生の時に韓国人の男の子を好きになった事がきっかけで、将来は絶対アジアの男を彼氏にすると決めていたそうです。
小学校1年生の時、授業中に日本の舞妓と侍、神社が描かれている絵本に感動し、日本に行くと決意したと言います。
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アメリカの大学にバスケットボールの特待生として声がかかり、無料で通えるはずでしたが、シカゴ市に母と買い物に行った際に、当時世界で1番有名だったニューヨークのアイリンフォードというモデルエージェントからスカウトを受けます。
カイヤさんは大学に進学する気満々で、バスケットボール用のシューズをシカゴに買いに行ったそうですが、そこでモデル事務所の社長に直接「私の家に一緒に住もう、モデルやろう」とスカウトを受けることになります。
母は驚いて、カイヤは恥ずかしがりで田舎出身だからニューヨークに住むなんて無理ですとお断りを入れますが、社長が「私が一緒に住むから大丈夫。面倒見る」と譲らなかったそうです。
家に帰り父に報告すると、「モデルになることは絶対許せない。勉強をしろ」と大反対でした。
その時に1番の親友が「絶対挑戦した方がいいよ」と背中を押してくれた事がきっかけで、カイヤさんはモデル事務所に入ることを決意します。
モデルとして活躍すれば、いつか日本に来れるかもしれないと考え、モデル業はぴったりだなと考えたそう。
最初はカイヤさんの雰囲気やスタイルが、可愛いキャラが受ける日本には向かないという理由で、ニューヨークに挑戦することになります。
イタリアの雑誌VOGUEがモデルとして初めての仕事になります。
GIANFRANCO FERREやディオール、クロエなどの仕事を18歳のモデル業1年目でこなし、世界中を飛び回ることとなります。
社長がカイヤさんをとても気に入ってくれ、ミラノ、パリ、ドイツ、イギリス、アフリカなどで売り込んでくれたそう。
高校生の時にクラスのスピーチで真っ赤になって倒れるくらい人前に出る事が苦手なカイヤさんは、この時点ではまだ人見知りで人と話すことが出来なかったそうです。
アフリカで仕事をしていた時、イタリアの事務所から連絡が入り、とうとう念願だった日本での仕事依頼がカイヤさんに入ったと知らされました。
やっと日本に行けると喜んでいた矢先、社長から日本に行くことはNGだと連絡が入ります。
そこで社長を説得することに失敗したカイヤさんは、勢いで事務所を辞めてしまいます。
世界的モデルになるチャンスを蹴ったという事です。
そこから日本に来るわけですが、舞妓、サムライ、神社が至る所にあると思い込んでいたため、日本に来た当初は、現実と理想のギャップにとてもショックを受けたそうです。
その後すぐに沖縄に移動し、ユニチカキャンペーンの水着撮影をしながら、モデル業を続けて行きます。
京都で仕事をした際に、金閣寺を見て感動し、6歳の頃に夢見ていた日本に出会えたととても嬉しかったそうです。
6週間のビザで、休みなく毎日日本で仕事があったそうです。
日本に訪れて3回目の時、元旦那の川崎麻世(かわさき まよ)と出逢い、次に予定していたオーストラリアの仕事をキャンセルして結婚する事になるのです。
その時には既に妊娠していたカイヤさん。
まだ旦那が人気が出る前だったという事で、自分が稼がなきゃいけないと腹を括っていました。
両親は結婚に大反対でしたが、カイヤさんの説得により式を挙げる1日前に日本に来てくれました。
そこで蛾を見つけた旦那が、トイレにこもって泣いてしまった事を父が目撃してしまい、この人にカイヤは守れないとショックを受けて帰ってしまったそう。
2人の出会いは運命のようなもので、付き合う前に六本木の道で、旦那さんと偶然にも3回遭遇します。
最初の出会いは、酔っ払いに道で絡まれていたカイヤさんを助けてくれました。
次に、トランスジェンダーのカイヤさんの友達がいじめられていた場面に遭遇し、その友達を助けたと言います。
子供が生まれたことで家計が一気に厳しくなったカイヤさんは、英会話講師を朝から晩まで毎週100人教えて生活費を稼いでいたそうです。
1998年放送された「痛快!知らぬはオトコばかりなり」の番組からオファーが来たことで、カイヤさんは日本番組で一躍有名になり、笑っていいとも!などどんどんレギュラーが決まっていき、5年間は休みなく活動しました。
実際の夫婦生活では、旦那の束縛が強かったようですが、当時は夫婦でテレビ出演しお金を稼ぐため、キャラ設定としてカイヤさんが束縛激しい鬼嫁を演じていたようです。
日本のテレビで売れるため、8人の彼氏がいる設定にしたり、怒るキャラクターを演じてたというカイヤさん。
エンターテイメントとして盛り上がればいいと、仕事として割り切って活動していたと言います。
カイヤさんは幼少期の土曜日、父といつもWWEプロレスを見ており、いつか絶対プロレスをやりたいと決めていたそうです。
子供とテレビを見ていた時に、「ママも人生で1度はやりたかったな」と話をすると、「じゃあ何でやらないの?」と返事が。
これがカイヤさんがプロレスを始めるきっかけとなります。
歳だからできない、運動していないから出来ない、身体を作れないから出来ないなどの言い訳を言っていたら何も出来ないし、子供に努力すれば何でも出来るという背中を見せたかったと言います。
1ヶ月間、毎日4、5時間プロレス練習し、アザだらけで全身緑になったそう。
プロレス生活は2年間行い、さいたまスーパーアリーナにも出演。
その前日に母が亡くなりましたが、仕事のためにすぐに飛んで行く事が出来なかったそうです。
アメリカ人にとって家族はとても大切な存在。
家族が病気になったら仕事を休む事が当たり前なので、カイヤさんの事情は家族に理解してもらえなくて辛かったと言います。
しかし振り返ってみると、とても楽しいプロレス生活だったと言います。
考えてることは絶対叶うというのがカイヤさんのポリシーで、自分の経験を元に現在は結婚と離婚のカウンセラーも行っているようです。
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