今回は、ボクシング界に彗星の如く現れ、1990年代前半にかけて“無敗のチャンプ”として人気を誇り、その甘いマスクでも多くのファンを獲得された、鬼塚勝也さんについてピックアップしてみたいと思います。
◎鬼塚勝也の主なプロフィール
1970年3月12日、福岡県北九州市出身。
中学時代からボクシングジムに通い始め、高校時代ではインターハイ・ライトフライ級で優勝する
程の実力を発揮。プロテスト合格後、高校卒業と同時に上京し、1988年4月にプロデビュー。
なお、(同じくプロテスト合格を受けていた)タレントの片岡鶴太郎さんがマネージャーとなりました。
以降WBA世界スーパーフライ級王者として、1990年代初めにかけて5度にわたる防衛に成功
に成功します。“SPANKY〈スパンキー〉K”の愛称で親しまれ、またその甘いマスクで多くのファン
を獲得されました。その影響は、当時連載されていた人気漫画「ろくでなしBLUES」の登場キャ
ラクター〈東京四天王・渋谷の鬼塚〉のモデルに起用される程でした。
1994年9月18日、韓国のWBA世界スーパーフライ級王者・李炯哲との指名試合を開始、
9R2分55秒に及び相手の連打を浴び、レフェリーストップによる『初黒星(敗北)』となります。
試合翌日に「網膜剥離」を発症し、引退を表明されました。
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◎鬼塚勝也の活躍の舞台をリングからアトリエに⁉
現役引退後、“(リングに立てなくなった)自分には何が出来るだろうか?”と、自問自答する日々が続いていました。一時はそのクールなルックスから、映画「狼たちの復讐」(1998年)では主演を務めるといった芸能関係のオファーもあった様ですが、間もなく単身渡米されます。
やがて、ロサンゼルスの求人広告に目が留まった事により、保育士助手を経験されます。
その際に、絵を描いて子供達から喜ばれた事を受け、「絵画」という次なる目標を見出だす様になったとの事です。
そして、1999年6月に故郷・福岡で自らのボクシングジム『スパンキーK・セークリット・ボクシングホール』を開設した際に、同ホール内で自身が描いたアート作品等を飾られました。
◎鬼塚勝也の現在の年収は?結婚は?
鬼塚勝也さんに対し、「パンチドランカー」ではないか?という噂が囁かれた事もありました。
「パンチドランカー」とは、脳に対する衝撃が重なり、脳に後遺症が発生し、“呂律が回らない”“記憶障害”“体の震え”等が見られます。ボクサーではとても多いと言われ、鬼塚勝也さんと共に“平成の三羽ガラス”と呼ばれ同時期に活躍された辰吉丈一郎さんや昨年2019年4月放送のTBS系列「爆報! THE フライデー」で取り上げられたピューマ渡久地さんも、この症状に悩まされました。調べた結果、鬼塚勝也さんは「パンチドランカー」ではない様です。彼自身、かなり特徴的かつ印象的な絵やデザインを描かれるので、勘違いや思い込みをされた方がいた様です。
近年の鬼塚勝也さんは、地元・福岡を中心に自らが手掛けた絵画や芸術作品を、『文化人・芸能人の多才な美術展』や『鬼塚勝也ファイティングアート展』等の展覧会で出展・披露されています。絵画は勿論、各方面での活躍もあり、年収は1000万程(推定)ではとも言われています。またバラエティー番組「アウトデラックス」やWEB番組「のんある気分」等、メディアにも顔を出されておられます。
因みに鬼塚勝也さん自身、ご結婚はされていない様で、“第二の人生?ありませんよ、俺の人生は終わりました。俺にはボクシングしかありませんから。”とコメントされ、常にストイックに自身の夢に向かい走り続けている事が感じられます。
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