高知東生さんは、俳優や歌手、タレントとして
活動されている方ですね。
高知県高知市出身で、2015年秋に
芸能界を一度引退しましたが、
2018年から、フリーとして
芸能活動を再開しています。
では、今回は、高知東生さんについて
詳しくまとめていきたいと思います。
高知東生さんは、現在の仕事内容としては
俳優活動も再開されているようで
最近では、Twitterドラマに出演しています。
他の活動としては
依存症の啓発で、仲間と一緒に
全国を回って自分の体験談を話すなど
あとは、エンターテイメントで
師匠がいるようで、その師匠について
歌を勉強しながら活動しているようです。
高知東生【前編】両親いない幼少期…/母は実は…
他にも、小説を3冊出しているようで
作者としての一面もあるんだとか。
近々、4冊目も出るそうですよ!
ちなみに、高知東生さんは現在57歳です。
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高知東生というのは、芸名で
芸能界に入った際に、事務所の社長が
最初は本名でいこうという話だったそうですが
プロフィールや今までの生き方などを
話していくうちに、「本名はやめておこう」
という結果になり、出身地である高知県を
取り入れた、高知東生になったといいます。
本名も公開しているようで、大崎丈二さんといいます。
本名を避けた方がいいと言われる
結果になってしまった、高知東生さんの
生い立ちは、生まれた時から
普通の家族ではなかった。といいます。
物心ついた時には、高知東生さんの
お婆さんと、お婆さんの長男家族と一緒に
住んでいました。
その当時に、「両親はいない」と
言われていたんだとか。
幼いながらに気になった高知東生さんは
理由を聞いましたが
「爺ちゃんが川へ釣りに行ったときに
箱の中に入って流れていたのを
かわいそうだったから拾ってきた」
と説明されたといいます。
幼い時にそれを聞いたので
高知東生さんは、その理由を本当に
信じていたんだとか。
その時から、「人の家に住まわせてもらってる」
という意識だったそうです。
小学校1、2年生の時に
よくお婆さんの家に来るおばさんがいて
そのおばさんは、訪れるたびに
高知東生さんのためになんでも
してくれたといいます。
そして、小学5年生の時にお婆さんの口から
「実は、あのおばさんはアンタのお母さんよ」
と、初めて告げられたそうです。
高知東生さんは、驚いたというよりも
自分に母親がいたということが
何よりも嬉しかったそうです。
嬉しかったという感情が最初に来たのは
それまで、やはり「人の家に住まわせてもらっている」
という思いとともに、
孤独感や寂しさがあったからだといいます。
お母さんと初めて会った時の
印象は今でも強く残っているようで
スーツ姿の男性3人くらいに囲まれて
着物姿で歩いてくる。という印象で
小学1、2年生だった高知東生さんは
怖くなった。ということを覚えているんだとか。
スーツの男性3人に囲まれて
着物で登場するということは、
極道の空気感が漂っていたんでしょう。
ですが、わざわざ来てくれて
自分のためになんでもしてくれるから
嫌うなどは全然なく、むしろ
来てくれる日を楽しみに待っていたんだとか。
そして、小学5年生の時に
「一緒に住むのよ」と言われ
お婆さんの家から出て、母親と2人で
住むことになったそうです。
その当時、シングルマザーというのは
かなりバカにされる時代だったそうで
学校で「親なし親なし!」と
揶揄われることが多かったといいます。
それにムカッと来てしまうので
学校で問題を起こしてしまったこともあります。
しかし、母親と一緒に住むということが
地獄の始まりだったといいます。
母親は、毎日酔っ払って帰ってきて
叩き起こされ、「タバコ買ってこい」
と言われたり、学校から帰宅すると
テーブルにお金だけ置いてあったことも
多くあったといいます。
挙げ句の果てには、テーブルに
お金は置いてあるものの
平気で2、3日帰ってこない。なんて日々が続きます。
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そんな日もあれば、スーツ姿の男性が
何人かでよるに高知東生さんを迎えにきて
組の事務所に連れて行かれ
若い方達とご飯を食べて、送り返してくれる。
なんて日もあったんだとか。
いわゆる、高知東生さんの母親は
ヤクザの愛人だったということでした。
そんな日々を送っている中、
ある日、またスーツ姿の若い男性に連れられ、
案内された場所は、ホステスの方が
多くいるような繁華街にあるお店でした。
そのお店に連れて行かれ、
座っていると、母親から
「今、隣に座っている人がアンタの父親よ」
と告げられたといいます。
父親が登場した際は、嬉しさはなかったそうですね。
もちろん、父親というのは
ヤクザの方で、父親と一緒に出かけると
何十人もの人に挨拶されたといいます。
高知東生【後編】女優と格差婚…/引退の誤報ストレス/
お婆さんの家にいた時も、孤独感などを
感じ、嫌われたくないという感情から
大人の顔色を見ていた高知東生さんですが
お婆さんの家を出て、自分の両親との
生活が始まっても、違う意味で
子供ながらに大人の顔色を見て
自分の居場所が変わっていくのを
恐れていたといいます。
そして、小学生から高知東生さんは
野球をしていたそうで
野球を中学・高校でも伸びて活かせるようにと
思っていたのです。
そこで母親が勧めてきた学校が
野球が強い全寮制の学校だったようで
即「そこにいきます」と答えたそう。
とにかく、両親から離れたくて必死だったといいます。
そして、全寮制の高校に進学した
高知東生さんは、家族とある程度の
距離を保ちつつ、野球に励んでいたんだとか。
それまで授業参観などにも1度も来たことのない
母親が、いつもの着物姿ではなく
上下ジャージにエプロンをして
寮でのご飯作りを作っている姿があったんだとか。
そこで、母親から「今日中に進路を決めてほしい」
と相談されたといいます。
その時の高知東生さんの感情としては
決めて欲しいと言いつつ、もう決められてしまっている。
という感情だったようで
しかし、それとは裏腹に母親は
任侠へ入ることを猛反対したといいます。
「できたら野球を続けて大学に行ってほしい」
と頼まれたんだとか。
しかし、高知東生さん本人は
そこまで野球に全てを捧げているわけでは
なかったといいます。
もう1つ、高知東生さんは気づいていることがありました。
全寮制の高校に通っている中
帰省することはあったようで、
帰るたびに、母親のバッグや宝石などが
少しづつ減っているということに
気づいていたそうです。
「お金に困っている?」と高知東生さんは
母親に問いかけたそうですが
それについての答えはなかったんだとか。
でも、高知東生さんは、お金で迷惑をかけるのも
嫌だと思い、地元に帰って就職するという
決断をしたんだとか。
その話し合いの帰り際に、
母親は高知東生さんに対して
「私、綺麗かな?」と問いかけてきたといいます。
その質問に対し、何を言ってるんだろう。
くらいの気持ちで受け流したそうですが、
高知東生さんの母親は、その直後、自殺してしまいました。
自殺するということを決めていたから
「今日中に進路を決めて」と急かしたのかも
しれませんね。
そして、遺書はなく、そのままの
お別れになってしまったということでした。
結局、高知東生さんは母親に
何があってこうなってしまったのか
わからないままだそうです。
ただ、愛人として捨てられたわけでは
なかったようで、高知東生さんも
色々と考えてみたけれど、
やはり原因はわからないままだったということです。
そんな辛い生い立ちだったため
高知東生さんは、本名ではなく
芸名で活動することになったようですね。
まとめ
いかがだったでしょうか?
幼い頃から、多くの経験をしてきた
高知東生さんは、きっととても
強い方なんだろうなという印象でしたね。
これからも、高知東生さんの
活躍を応援していきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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