綾小路翔さんの結成したバンド・氣志團は今年で25周年。浜崎あゆみさん、倖田來未さん、木梨憲武さん、東京スカパラダイスオーケストラ、WANIMAさんなど今までお世話になった方々に声をかけ、アルバムを作成しています。
収録曲は全て「One Night Carnival」で、それぞれの歌手のカバー曲が聞けるという作りになっています。「One Night Carnival」もリリースして20周年。
綾小路翔さんのバンド・氣志團は木更津出身ですが、綾小路翔さん自身は木更津の隣の君津市出身です。初恋の女の子が光GENJIさんの下敷きを持っていた事がきっかけで、従兄弟の兄さんにカセットテープに光GENJIさんの曲をダウンロードしてもらい、音楽を聞くようになったそうです。綾小路翔さんは小学校に上がっても大人しく、何かに長けて目立つような子では無かったと言います。
【前編】氣志團 綾小路 翔/他校生から●ンチ/学級委員長からヤンキーに/木更津のライブハウスで…
年子の弟が大好き過ぎて、弟以外友達も何も要らないと思う程可愛がっていたようです。当時、無理矢理学級委員に任命された綾小路翔さんは、遠足の時にバスの中で「キャンディ・キャンディ」の替え歌を披露します。するとバスの中が笑いに包まれ、次の日から「他の替え歌も歌ってよ」とクラスメイトから声をかけられるようになったそうです。
さらに学校のマラソン大会で上位入賞し、初めて人から注目されるという成功体験を経験します。勉強も出来る方だった綾小路翔さんは、周りの子に勉強も教えるようになり、どんどん自己肯定感が高まっていきます。そして小学校3年生の頃には、自分からクラスの学級委員に立候補するくらい積極的になったようです。しかし小学校5年生の時にやってきた喧嘩の強い転校生に、「何調子乗ってんだ」と目を付けられるようになってしまいます。
生まれて初めて、サイヤ人という戦闘民族に出会った気分だったと言います。その方とは現在では大親友ですが、当時の綾小路翔少年は、サイヤ人の仲間に加わらなかったという理由だけでクラスから集団無視を受けるようになってしまいます。
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サッカーチームで仲が良かった子に「話しかけるな」と言われたことがキッカケで、綾小路翔さんは生まれて初めて他人に手を出してしまうのです。当時優等生のイメージが強くついていた綾小路翔さんが友達を怪我させた事で先生たちもビックリ。しかし次の日からクラスメイトの集団無視が解け、サイヤ人の転校生から認めてもらえるようになったと言います。
そこから戦う事の必要性を意識したという綾小路翔さんは、表でも裏でも学校を動かすようになったそうです。思春期も相まって身なりを気にし出すようになったという綾小路翔さん。必要以上に自分の権力に固執するようになり、学級リレー代表外れたら今までのようにイキがる事が出来なくなると、地位の転落による怯えも同時に始まったと言います。
小学校6年生の時に片思いの女の子との恋が実り、中学校で初交際をすることが出来たそうです。
中学に上がった綾小路翔さんは、隣の小学校出身のツッパリと仲良くなり、ヤンキーの世界を教えてもらいます。中学校2年生の時に同級生と結成したバンドで、60曲を収録した60分のアルバムを作成し、同級生何名かに購入してもらったと言います。
中学校3年生の時には、無理矢理木更津のホールでライブをし、ライブデビューを果たしますが、周りのバンドレベルが高過ぎて赤っ恥をかいて帰ったと言います。バンドメンバーが全員別々の高校に進学したことから、綾小路翔さんのバンドは解散することになります。
昔、雑誌「BANDやろうぜ」で野村義男さんのコーナがあり、「バンドをやるために高校に進学したくない」という相談者に対し、「僕は唯一後悔していることは学生ライフを送らなかったことだ。表現者になりたいなら、色んな経験をした方がいいんじゃないか」というアドバイスが心に響いた綾小路翔さんは、必ず高校に進学して、ヤンキーの道から足を洗ってやると決意し、そこから真面目に学校に通いだしたそうです。
しかし、進学した高校が地元の先輩も在学しているヤンキー寄りの学校だったらしく、周りに流されてヤンキーに戻ってしまい、バンドから離れてしまったそう。木更津の高校に進学した綾小路翔さんですが、木更津のヤンキー先輩達は喧嘩が強い弱いの上下関係で人を決めるのではなく、ユーモアやアイデア、音楽の知識が深いなど、その人の個性を尊重し面白さに変えていく世界だったらしく、喧嘩で物事が決まらない世界を初めて目の当たりにし感動したと言います。
学園祭では、同級生に何名か声をかけ、校歌をパンクバージョンにアレンジした歌を披露したり、カバー曲を披露したりしたそうです。その頃には綾小路翔さんのバンドに対する考えが、「カッコつける」から、「みんなを楽しくさせる」に変わっていたそう。
【後編】氣志團 綾小路 翔/3年で東京ドーム公演/紅白出場もバンド分裂/DJオズマ 宇多田ヒカルを…/コロナで氣志團万博中止…
高校卒業後はバンドを続けようと考えていた綾小路翔さんですが、上京して2年間は仕事が忙しく、全く音楽を触れなかったと言います。高校時代にバンド仲間だった雪之丞さんは、綾小路翔さんが社会人をしている間にバンドを6つ掛け持ちし、ドラムで全国ツアーに参加していました。
その姿を見て、意を決して仕事を辞めた綾小路翔さんですが、雪之丞さんと揉める、当時の彼女と別れるなど、上手くいかない事が立て続けに起こってしまいます。裏社会で稼義、ある程度の資金を貯めた綾小路翔さんは、東京でアルバイトを募集していたライブハウスに面接で通ることが出来、東京に来てやっと音楽を本格的に始められたと言います。
当時20歳。東京に出てきていた高校の同級生2人に声をかけ、1997年に「氣志團」が誕生します。初めに着ていた衣装は学ランではなく、「ハイティーン・ブギ」という漫画に出てくる「ライダース」というバンドの衣装の真似をして、革のつなぎを着ていたと言います。最初は歌を作ることが出来なかった為に、曲だけを演奏するインストバンドだったそうです。
いつも演奏を見にきてくれていた木更津のメンバーが、バンドに入れてくれと言って、氣志團にアドバイスをするようになります。それが功を奏し、バンドの演奏能力が格段に上がったと言います。まだ注目されてもいない氣志團を、「木更津キャッツアイ」の出演に指名してくれた宮藤さんのお陰で、氣志團は一気に世間に知られる存在となります。
すぐに飽きられない存在として芸能界で生き残る為に、音楽番組とバラエティ番組のオファーは断ると決めていた氣志團は、話をしっかり聞いてくれるNHK番組からのオファーのみ引き受けていたと言います。3年後の2004年には東京ドームを成功させ、同じ年の12月に紅白出場を果たします。初めての紅白出場では、やりたい事を全部やろうという事で、九回もの衣装チェンジをしたそうです。
氣志團のCDのDJとして出てくる「DJ OZMA(オズマ)」がファンの間で人気が出てきたこともあり、サーファーをコンセプトにDJ OZMAを3次元化して登場させることになります。
波に乗っていた氣志團を今後どうするかでワクワクしていた綾小路翔さんと対照的に、バンドメンバーが実は疲弊していた事を打ち明けられます。そこで1人での活動を決意した綾小路翔さんは、本格的にDJ OZMAを始動させます。当時はCDの売れ行きが落ちていたこともあり、ダウンロードに目を向け「アゲアゲエブリナイト」を売り出す事に成功します。氣志團の1番売れているアルバムより売り上げを立てることが出来たと言います。
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